始まりは何らいつもと変わらない朝からだった…

これは架空の広告会社ABC株式会社で起きたフィクションである。

ペルソナ(主人公)

  • 大江健太郎、32歳、男性、(全くもてない)独身
  • 横浜市出身、横浜国立大学卒業後。塾の講師を3年間経験。
  • その後4年間アルバイトをしながら会計士を目指すが2度試験に失敗。
  • その時に挫折感を味わい、人生リセットのためアジアへ半年間バックパッカー旅行を経験した。
  • 30歳目前になり安定的な生活を目指すため現在の広告代理店に就職した。
  • 現職では3年目。一通りの仕事は覚え、総務の傍ら情シスを兼任。
  • 今年からは自社だけでなくクライアントのWebサイト運営も任せられた。
  • 本人としては出来るところを見せたいのでかなり気合が入っている。しかし、まだまだ技術的にも覚えることが多く四苦八苦している日々。

その日は、総務兼任の情シス担当である大江はいつもより2時間遅い11時半出社だった。昨夜は遅くまでWordpressテーマの入れ替え作業に追われいた。帰りはおなじみの終電だった。普段は9時半出社の大江だが、その様な日は2時間遅く出社が許されていた。そして、この日もいつもの出社になるはずだった…。

大江がスマフォの着信に気付いたのは会社近くの駅を降りた時だった。 移動中は常にスマフォをマナーモードにするため着信に気づかなかった。しかも、この朝は電話だけではなくメールも10通以上届いていた。 

プラットホームから足早に改札へ向かい、改札を出てようやく人の波を避けられるところにたどり着いた。そして直ぐにメールを確認した。すると、サーバーの異常を知らせる警告メールが10数通、クライアントのWeb担当者からのメールも5,6数通入っていた。着信は会社からとクライアントのWeb担当者の番号からだった。この時点でようやく何か大きな問題が起きている事を気付いたのだった。会社の方向へ歩きながら会社に電話をかけた。総務部上司の安藤は少しパニック状態で電話に出た。

大江:お、お、おはようございます。

安藤:おー、やっと連絡くれたか!いや〜まずいことになっているよ。

この時点でバクバクしていた大江の心臓は自分で鼓動が聞こえるかと思えるほど大きくなった。大江は小さい時から心臓に疾患があり、過度のストレスを受けるとこの様な症状が出てくるのであった。

大江:ーーー、まずい事ってなんすか?

安藤:クライアントXYZ社のWebサイトへアクセスするとわけのわからない外国語のページが表示されるんだよ。XYZの担当者が朝出社して気づいたらしいんだよ。

大江:アクセスしているリンクは間違えないっすよね?ドメインの一部が間違っていたとか言うことよくありますが。

大江はかすかなのぞみを託して有りえもしないと思いながらも聞いてみた。

安藤:間違えない。俺のパソコンと携帯でも確認したから。しかも、うちの会社のWebサイトも全く同じ状態になっているんだよ。今朝XYZ社から連絡もらった後あたふたしていたらABC社の人から連絡があって教えてくれたんだよ。確認したら確かにXYZ社と同じページになっていたんだよ。

大江:まじですか!

安藤:とにかくいいから早く出社してきてくれ。俺じゃどうにもならないから、まずはこっちに来て状況を確認してくれ。

この時点で大江の足は一気に重くなり、バクバクなっていた心臓はぎゅーっと縮むのを感じていた。そしてようやく自分のデスクにまでたどり着いた。

大江:おっ、おっ、おはようございます…。

安藤:おはよう、まずはこれを見てくれ。

安藤は自分のPCで問題のWebサイト画面を見せた。

安藤:多分これロシア語だな。いったい何が書いてあるんだろう。真ん中に数字があって、それがカチカチ動いているのが不気味だな。このマークはビットコインてやつだろう。

情シスを兼任しながらインフラやセキュリティーの事に興味を持つようなり始めたレベルの大江だったが、それがランサムウエアーだというのは一目瞭然だった。

大江:それはランサムウエアーと言って、パソコン内のファイルを全て暗号化して身代金を要求する手口ですよ。よくパソコンでウィルスにかかると起きるんですが、サーバーでも同じようになるとは知らなかったです。

安藤:ランサムウーハーか?

大江:いえ、ランサムウエアーです。

安藤:えーい、どっちでもいい。そうなると、何だこのランサム何とかってのに引っかかって身代金を要求されているって事か!?

大江:はい、見たところそうです。

安藤:それはかなりやばいな。えー、確かうちのもクライアントのサイトもワードクロスとかなんとか言うソフトで管理していたよな。それで、データを確認して見るか。

大江:ワードプレスですが…。あ、はい、じゃあワードプレスにログインしてページを見てみます。

大江はワードプレスの管理画面へアクセスするが、ブラウザーには『Not Found』が表示されるだけでいつものログイン画面が表示されなかった。

大江:だめです。表示されるはずのログイン画面が出てきません。

安藤:表示されないってどー言う意味だよ。キーボードのエンターキーをもっと強く叩いてみろよ。

大江:管理画面のリンクはまちがっていないので、間違えなくアクセスはしています。ですが…、これにアクセスできないともうお手上げです。

安藤:お前、お手上げって…諦めるの早いな。お前らミレニアム世代ってのは俺ら団塊Jr世代の粘り強さとは比べものにならないな。まあ、今そんな事いってもしょうがないけどな。そういえば、データのバックアップはあるか?復旧が出来なかったらバックアップからデータを戻す方法もありだな。

大江:はい、今それを調べていましたが。バックアップしていませんでした。すみません…。

安藤:お前、「すみません」じゃねーよ!バックアップぐらいしておけよって…今更言っても仕方ないけどな。さーどうするか。他になにか復旧の方法はあるか?

大江:サーバー会社に復旧できるか聞いて見ます。

大江はサーバーホスティングのS会社のサポートへ電話した。なかなかつながらなかったが、10分ほど待たされてようやくサポートにつながった。その間、安藤はクライアントからの問い合わせに対応し、いつまでに復旧出来るかを問い詰められていた。どうやら、XYZ社は月曜日からキャンペーンを行っているらしく、申込みはWebサイトのフォームから受ける予定との事だった。事態はますます深刻さを増して来た。そして、大江はサポートとの電話が終わり、暗くうなだれていた安藤にさらなるトドメの言葉をかけるのであった。 

大江:S社のサポートなんですが、バックアップはないそうです。共有サーバーなので、システム全体のバックアップを戻すとサーバー内の他のサイトのデータも戻ってしまうため、リカバリーは出来ないそうです。残念です。

安藤:残念ってな、お前…。じゃあ、何だ、何も出来ないって事か?

大江はしばらく考えている様子で黙っていたが、突然ひらめいたようにまた自信アリげに言った。

大江:出来ることは一つだけあります!身代金を払う事です。このページを見ると金額は…1ビットコインだから…今のレートに換算すると86万円ですね。これを払えばデータがもとに戻る可能性はあります。

安藤:は、は、はっ86万円!そんなに高いのか!

大江:はい

安藤:うーん、仕方がない。それしか方法がないのなら、それを支払って早くデータを復旧させよう。俺が社長に許可とるから。

そして、安藤は社長の許可をもらい、大江は1ビットコインを支払う事になった。

問題が発見されてからすでに8時間が経過していた。大江は今日はもしラッキーだったら終電、そうじゃなかったら徹夜と覚悟していた。支払いが完了して4時間経ってもハッカーからは何の連絡もなく、夜10時になろうとしていた。そして、クライアントからの電話の口調は時間が経つにつれて厳しいものになって行った。安藤は、1時間ほど前に謝罪文を作成し手土産を買ってクライアントの担当部署へ謝罪に行って来たばかりだ。かなり詰められたせいか、安藤はすっかり憔悴しきっていた。大江は相変わらずハッカーからの復旧の連絡をまっていた。問題は解決せず時間だけが経っていった。周りのスタッフは全員帰り、シーンとした暗いオフィスの中は疲れ切った二人の姿だけが有った。二人は疲れを通り越して、少しハイな気分になっていた。

安藤:そろそろ終電の時間だな。

大江:はい、そうですね。連絡来ませんね。だめかな。

安藤:そうだな、だめかもな。実はな、大江、俺はまだ前には言っていなかったが、実は俺この会社辞めるんだよ。

大江:はっーー、辞めるって何時ですか?

安藤:今月末だ。だから明日が最終出社日という事になるな。だが、有給があと1日消化してないから明日は休みにしょうと思っている。

大江はこの時点で安藤が何を言っているのかが理解していなかった。頭がもうろうとしていた事もあるのだが。

大江:有給明日っていうと、これ対応するのオレ一人ってことっすか!?

安藤:悪いな。そいう事になるな。

大江の心臓がぎゅっと縮むのがはっきりとわかった。そしてしばらくすると、怒りというより呆れて、もうどうでもいいや〜という開き直り、いや、むしろ悟りの境地のような感情が湧き上がってきた。そして彼の口から出てきたのはこんな言葉だった。

大江:そーっすよね。先輩は10年間この会社で頑張ってきたんすから最後の有給とって休んでください。これはオレ一人でなんとかなりますから。

なんとかならないことはじゅうじゅう承知の大江であったが、全く思っていない事が口からするすると出てしまった。安藤のことは嫌いではなかった。むしろ入社したときから一番面倒を見てくれたのは安藤だった。なので、感謝の気持ちもあるのであった。そして、安藤は終電で帰っていった。

深夜を過ぎた広いオフィスに一人だけ残された大江は、状況を少し整理してみた。なぜサーバーがランサムウエアーにやられたのか、その理由が何だったのか、単に推測に過ぎないが。いくつかのキーワードで検索して、一番の理由として考えら得るのはワードプレスプラグインの脆弱性らしかった。そう言えば、ワードプレス自体は自動更新されていたが、プラグインはこれまで一度も更新した事はなかった。更新することで動かなくなってしまうのを危惧していたからだった。サーバーを構築したときには前任者がインフラに精通していた人だったので、セキュリティーは厳しく設定されていた。その担当者が辞めた後に大江が担当してCMSを使って管理するようになった。ワードプレスは全く初心者だったため見よう見まねでネット上の情報をかき集めてどうにかここまでやってきたのは彼としても誇れると信じていた、また自信がついてきたのである。しかし、今回のことでその誇りと自信は一瞬のうちに崩れさる事になったのである。

 

3時をすぎる頃にはこれが夢だったらどんなに良いことかと思うようになった。そして、時間が経つとともに現実から離れ、彼を縛り付けるものから開放されたいという気持ちが高まってきた。しかし、それも朝になればなるほど眠気と恐れの連鎖に変わっていくのだった。このままハッカーから連絡が来なかったら朝クライアントになんて報告すればよいのか…。86万円支払って復旧しなかったら社長になんて報告すればよいのか。その2つの事が頭のなかでぐるりぐるりと回って頭がフラフラになっていた大江であった。俺も辞表を明日提出しようかなどと卑怯な考えが頭の中をよぎっていた。しかし、一方ではこの会社で任されている仕事を成し遂げなければという使命感も彼の中には有ったのである。そして、フラフラになった大江はそのままデスクの上に手で頭を抱え込んだまま気を失っていたのである。

続く

この記事を書いた人

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Masahiro Otsuka

CyberGuardians,Inc.
Chief Happiness Officer

趣味は家具作り。家具作りはどっぷりハマって1年半程度で本人的には既に気分は家具職人。横浜をこよなく愛している4児のパパである。